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HANABI!! HANABI!!


洋 火
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明治10年11月3日の天長節の祝日に横浜公園内で大煙火を施行。旧豊橋藩の平山甚太が担当。煙火業界初の紅雨聯星青珠という色の付いた煙火を上げた。洋火の発祥である。平山煙火の名声は全国に轟き注文が殺到した。

宝塚観光花火大会
現在の宝塚の花火大会は大正2年 (1913) に全国煙火競技大会として開催されたのが始まりで、全国規模の競技会としては有名な大曲や土浦より早く行っていたわけです。当時の競技会は二日間にわたって行われ現在の宝塚の花火も二日間あるように名残があります。

大隈重信
第8代、17代と内閣総理大臣を務めた大隈重信氏。相当の花火好きであったようで、伯爵時代には何かあるごとに花火を上げさせていました。南極探検の壮行会、そして明治43年に東京の大森海岸で開催された全国煙火大競技会では自ら大会委員長も務め全国の名立たる花火師に参加を求める書状を出していました。この手紙が現在でも長野の花火師さんへ残っています。


大三国
大三国)今宮郊戸八幡宮秋季祭典04.9.jpg

伊那谷地域に残る筒花火、三国(大三国)は火薬の噴出し方によって様々な呼び名が付けられている。中でも次の火薬までの点火を継ぐための火薬は伊那の北では 「ホヤ」 、飯田では 「都」 (みやこ) 清内路では 「どや」 と名づけられ火薬の配合も微妙に違う。 「ホヤ」 は硝石、炭、硫黄を混合するが「都」は硫黄と炭のみで作られ、特に炭はやわらかな桐で作るのが良いとされている。

龍勢花火の原点  
龍勢花火(流星)の原点と思われる飛火炬 (とびひこ) 、打火炬 (うちひこ) なるものが忍者の道具として伊賀の忍術兵法書に紹介されている。

古土法
硝石を作るための方法で太田持資(のちの道潅)が長禄3年(1457)に江戸の地に築城するにあたり事前に地質調査をしたところ「ねんど」(燃土)を発見した。「ねんど」は古い家の床下から採取した土に水を加えて硝酸カルシウムを抽出し、濃縮を重ね灰汁と混合して硝酸カリに変えた。その後、麻殻の灰と硫黄とを混合して突き砕き、焼酎で練り固めたのちに細かく刻んで充分に乾燥して火薬を作った。


川開き
川開き)7月東京都1.jpg

明治3年6月11日、横浜でも川開きが行われた。その時の煙火は鍵屋が担当した。

太田道灌
永享3年(1432)、太田資清の子とした生を受け幼名を鶴千代といった。その後、主君上杉持朝の一時を与えられて太田源九郎持資と改名。「ねんど」を発見し火薬を作り木筒に詰めて花火を揚げた。1486年7月15日、一人で船に乗り大川で花火を揚げた際に 数百人の武士から弓矢を放たれ49歳の生涯を終えた。

培養法
高床式の住居の下で家畜を飼育し、その糞尿が微生物によって化学反応したものから硝石を抽出する方法で東南アジアでは古くから取られていた方法である。このような高床式の家は日本各地にも存在することから1500年代に伝えられた。高床式の床下に穴を掘り刻んだ草を積み上げ糞尿などを混ぜて発酵させるもので3年から5年の年月を要した。

花火の価格
大正12年五寸玉が一個二円でした。一人で一日6個から7個を製造できました。当時の物価は理髪料金が約30銭、銭湯が約五銭、タバコも五銭ぐらいでした。